毎日早弁

アクセスカウンタ

zoom RSS インフルエンザの年末年始 そして「どんと祭」

<<   作成日時 : 2015/01/19 23:23   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 8

あけましておめでとうございます。 ・・・・今更ですが。
今年の年末年始は、インフルエンザに終わりインフルエンザに始まりました。

12/27のこと・・・・娘と孫を迎えに妻と出かける予定でした。
ところが前日からカミさんは、寒気がすると言っているうちに熱発!!
朝一番で病院へ・・・判定は陽性!「A香港」でした。
うつると大変なので、急きょ次女が変わりに付いてきてくれました。
何せ、富山まで7〜8時間はかかりますからね。

これは最悪な年末年始の予兆にすぎませんでした。
新潟に一泊し自宅へ・・・
カミさんは寝室に隔離し、食事は部屋に届けました。
自分は、寝室の中に小さな箪笥部屋&書斎が隣接してありますのでそこに布団を敷き寝ることに。
(つまり寝室のドアは一つなのですが、中は二部屋になっています)

実はこのとき、80歳の母は感染していたようです。
30日にだるい・寒気・そして熱・・・・・
31日母を病院へ・・・ やはり陽性判定(同じくA型)
そのころカミさんは、復活の兆し・・・早めに処置が出来たため熱はすぐ下がってくれました。
去年までは熱が下がってから2日は感染の可能性があるので外出禁止でしたが、今年は厚生省の発表で3日置きます。 インフルエンザになって5日が必要です。

次に富山から里帰りした娘が感染。 まずい状況です。 孫はまだ1歳4か月です。
ご飯は食べますが、完全母乳で育てましたのでミルクは飲みません。
仕方なく授乳しやはり、寝る時も一緒です。

すると、長男&次女も発熱・・・やばいです!

しかし、長男は熱が下がり復帰、次女は病院に行きましたが、陰性でした。
インフルエンザは感染しても症状が出ないで終わってしまう人もいるので、自己免疫が勝ったのかも知れませんね。

妻と自分は祝日や正月は関係ない仕事なので、休みの時に、全員の食事を其々の部屋に運んでクタクタになりました。 おまけに孫の世話もありましたからね。

正月7日は83歳の親父が感染・・・歩くのがやっとの体力だったところに寝込んでしまいついに立てなくなりました。

家には7人+乳児でしたが、全く移らなかったのは、自分と孫の二人だけでした。
すごく心配した孫でしたが、毎日元気で過ごしました。 母乳からの免疫でしょうか?
普段から、食品には気を付けていて、一切化学調味料や砂糖は使いません。有機野菜などのオーガニックのものばかりで電子レンジもIHヒーターも使いません。

自分の辛い経験からアレルギーには気を付けたいという思いでしょう。
原発もいまだに放射線を出し続けていますからね。

父が感染したとき、最後に残された自分は、係り付けの病院に行き、予防のために「リレンザ」を処方していただきました。

母の時は、救急病院に行ったのですが、リレンザもタミフルも副作用が強く出る可能性があるので・・・ということで処方されませんでした。

親父の場合は、吸入が無理なので、点滴のラピアクタを処方された。


そんなわけで正月気分は一切なしの正月でした。

「どんと祭」は近くの多賀神社へ

以前の記事です。多賀神社


画像



画像



画像



画像


孫を連れて鹽竈神社へ

画像



定義如来へ

画像


画像


画像


もちろん三角あぶらげも購入

画像



とんだ年末年始でした。

追伸:香港Aですが今年流行したのは、数年前に流行した新型のようにちょっと変形しているようで、今年の予防接種は効果がありません。しかし、薬は効きます。
最近B香港型が出てきました。みなさん気を付けてくださいね。

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
はじめまして、太郎と申します。
ひー様のブログは「チャリンコ」のことをガラケーの検索機能〔Google〕を使って調べていたら、酔漢様のブログがヒットしました。そこから貴方のブログにたどり着いて、愛読しております。
本文記事とは関係ないコメントで恐縮ですが、「散歩道」で取り上げていただきたい事項がありましてコメントいたしました。
それは、多賀城の「マンモス坂」であります。この坂については、以前、東日本放送の本間ちゃんの番組で取り上げられ、この坂を含む道は、進駐軍施設と住宅とをつなぐ道路として建設されたものであるが、坂の俗称の由来は不明〔諸説有り〕との事でした。坂の俗称については、私の友達の内々では「ふんどし坂」と呼んでおりましたが、当該番組ではぜんぜん出てきませんでした〔ググるとグズラ氏の発言がヒット〕。ひー様の坂の俗称の新たなる考察を是非ともよろしくお願いします。 長々と勝手なるお願いばかりで申し訳ありません。
太郎
2015/01/22 00:54
☆太郎様へ
コメントありがとうございます。
マンモス坂は自宅から遠くございません。
私が子供の頃からマンモス坂と呼んでいたように思います。意外と子供たちから命名されている場合もありますからね。坂を上り右に行くと進駐軍の宿舎がありました。 もちろん当時は日本人の住宅でしたがね。
白い壁に、入り口は引き戸で無くドアでした。その外側に網戸の戸のドアがついていました。
話は外しますが、鶴ケ谷の多中の横の山の上の野球場ですが、あそこには進駐軍の施設がありました。
体育館に深いプールもありました。 小学生の頃は、探検と称してよく行ったものです。
建物は廃墟になっておりトイレは様式でした。あの汚いプールに友人が落ちた記憶があります。
山の壁面には防空壕がありましたよ。 当時、引き戸が主流の日本住宅ですが、進駐軍のドアはまるで古い洋画をみているようでした。 調べられるかどうか不明ですが、私なりに調べてみます。
ひー
2015/01/22 11:20
あいやぁ〜!ひー家のインフル地獄恐るべし!そんでも案外オヤヂとアカピコ罹んネんだよなぁ〜
アカピコはツッコの免疫、オヤヂはバイキンさ塗れで育ったスブドサだべがねぇ〜?
ところで、思いがけず「マンモス坂≒ふんどし坂」の話題がアップされたようなので、オイラも緊急参戦します。
こっからしばらくは、太郎さん宛てと云うことで…初めまして、ひーさんとは多小・多中の同級生の「ぐずら」です。太郎さんのお仲間もあの坂を「ふんどし坂」と呼んでいたとのことですが、オイラも小中学校時代同じ呼び方をしていました。
あの頃「ふんどし坂」呼称を使用していたのは、主に東西能ヶ田を含む伝上山地域や鶴ヶ谷、下馬方面から通学していた連中で、留ヶ谷、朝日ヶ丘、高崎方面等の野田の玉川西岸地域で何と呼んでいたかは良く判りません。ちなみに、ひーさんの地区は坂よりも西側、オイラの地区は坂の下の野田の玉川よりも東側の地域です。
そこで、推測ですが、東方地域から多小に向かうと、学校の北側通学路から見える坂の形状が「ふんどし」みたいだったので、玉川東岸地域のワラスどもが「ふんどし坂」と呼んだのではないかと思います。
今でもそうですが、「坂」の突き当りはT字状になっていて、しかも頂上付近は左右のY字で、その真ん中に逆三角形の草むらがモッコリ盛り上がっています。西能ヶ田の坂を昇り切ると、真正面に股間の膨らんだ「ふんどし」…この光景を他に何と呼べばいいのでしょうか?と云うことで、野田の玉川の東西で通称が違っていたのではないかと思いますが、どうでしょうか?
ぐずら
2015/01/23 00:06
続きです。
多中南隣の市営球場の山のことですが、あそこは戦前に海軍工廠造営のために地域まるごと現在の笠神に移転させられた旧西園寺があった場所で、その址が海軍の上級将校クラブになっており、戦後は進駐軍の白人将校用の保養施設(黒人将校用は天真小学校のところにあったそうです)に転用されたものでしたが、その廃墟が野球場のできた昭和40年代半ばまで残っていたものです。
セメント製の動物のオブジェや遊具の残骸があり、プールは2つあって砂で埋められていた狭い方には高さ2メート程の飛び込み台があったのを覚えています。
小5の時、下馬南のKSがあの山で草むらをつついてマムシに咬まれ、夜中に病院に担ぎ込まれた、なんてこともありましたよ。
おっと!
また思い出したけど、ふんどし坂≒マンモス坂の上、南角の今はマンションの建ってる所には、進駐軍の司令官官舎だかなんだかの洋館が建っていて、オイラがやろっこの頃は塩竈の東北造船の社員クラブになっていて、昭和50年代には一時ビアガーデンとして営業していました。一度だけ飲みに行ったことがありますが、庭で飲んでると蚊に喰われてシシャマシテおどげでねがったのも覚えていますよ♪
ぐずら
2015/01/23 00:13
ひー様、早速の返信ありがとうございます。また、ぐずら様、参戦ありがとうございます。
マンモス坂の俗称について、教えていただきありがとうございます。同級生であっても、居住地域が異なると呼び方も違う事がわかりました。
旭ヶ丘の進駐軍住居跡に昭和40年に1ヶ月程間借りしていたことがあり、その中で水洗腰掛け式トイレと風呂場に洋風長浴槽があったことが子供ながら記憶に残っております。


太郎
2015/01/23 01:18
☆太郎さんへ&グズラっさんへ
ちょうど今多賀城図書館から帰って来たところです。 生憎、多賀城の棚には古代史と考古学の資料しかなく戦後の昭和史についての本はありませんでした。
海軍工廠の本も買ってありましたので探してみたのですが、記載はありませんでした。
グズラ氏も行きましたか、あの廃墟と化した敵国の洋館に・・・・・あのプールに竹竿を刺して深さを測ったらとんでもない深さでした。落ちたら死ぬと思いましたよ。

太郎さんがあの進駐軍の館に住んだことがあるとは驚きです。 あそこは一般のアパートだったのでしょうか?
それとも自衛隊の官舎扱いだったのでしょうか?
ひー
2015/01/23 12:44
ひーさん こんにちは
ご質問の件ですが、旭ヶ丘の進駐軍住居の件ですが、旧大蔵省所管の国家公務員住宅だと思います。
太郎
2015/01/23 13:00
☆太郎さんへ
なるほど! そうですか。 仙台の古い地図を見ると、軍隊のあった場所は、ほとんどが、国立大学や国家公務員住宅になっています。その他は公的な施設が今でも続いていますね。
旭ヶ丘の進駐軍住居は現在学院大の工学部になっていますね。写真を撮ろうと思いましたが垣根が並び以前の面影がありませんのでやめました。



ひー
2015/01/23 17:10

コメントする help

ニックネーム
本 文
インフルエンザの年末年始 そして「どんと祭」 毎日早弁/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる